・また子どもをこっぴどく怒っちゃったなぁ。。。
・ガミガミ言っちゃったなぁ。。。
・私は母親としてだめだなぁ。。。
子どもが泣いたり、落ち込んだ様子を見るたんびに、こんな反省や自己嫌悪をする機会が多くなってくると、辛くて、悲しくて、情けない、何とも言えない気持ちでいっぱいになってしまう時ってありませんか?
私はそうでした。
でも、今は違います。
なぜかって?
自分のことを母親として『ダメだなぁ』と落ち込んで思うことがある人は、大抵はダメなんかじゃない!
『ダメな部分がある自分』に気付けるきっかけをくれている『我が子』に感謝することで、母親として成長していけるはず!
と信じているし、私自身も含めて、今まで出会った人たちを見ていても、そう確信しているからです。
ここでは、そう確信するに至った私の日常生活での出来事、気づきを2回(2つの記事)にわたってお伝えしたいなと思っています。
※第2回の記事はこちら。
<少なくとも確実に週1回は自己嫌悪に陥って神経的に疲労してた頃(子どもたち:4歳、2歳の頃)>
:『母親としてサイテーだな。。。』と自分を嫌いになりかけてた時期です。
【 当時の私の状況概要 】
●もの凄くやりがいを感じつつも、時間的に超ハード(朝から帰宅後の深夜まで)な就業。
●在宅/出勤半々勤務。
●在宅勤務日の勤務開始前、昼休憩時に集中して家事を済ませ、入浴・夕飯・寝かしつけ後の20時頃に、業務再開。
●育児時間帯として勤務不要な時にでも、突発的に発生する至急対応が週に3,4回が常態化。
思い出しただけでも、よくあれだけ仕事に時間を割いたもんだ。。。と今なら信じられないくらいです。
とにかく、当時は、そんな状況でした。
当然と言えば当然なんでしょうけれど、私は業務をこなしていくために常にピリピリしていました。
育児時間帯でもいつ電話が鳴って、新たな依頼が入るか分からない状況の中、常に子どもたちには『早く、早く』ということが多かったことを記憶しています。
以前なら、一言注意するだけで済ませるのに、それ以上に、声を荒げてガミガミ言ってしまう。
その結果、ひどい疲労感を感じることもよくありました。
子どものためと思って注意しているつもりでも、結局(仕事に差し障るという)自分の都合でイライラして、そのイライラをぶつけてしまっていることに、いつも頭の片隅で気づいていたからこその疲労感だったと思います。
例えば、
上の子が食事中にふざけていたために牛乳を派手にこぼす、という事が起こった時。
自分に余裕がある時なら一言注意するだけで済ませるのに、そうせずに、普段以上に声を荒げてガミガミ言ってしまう。
「食べ物、飲み物を無駄にするようなことはいけない」「食事中は楽しんでもふざけてはいけない」こうしたことを伝えるだけでいいのに、
「もうほんっとうにヤダ!」と吐き捨てるように繰り返し言ってしまっていました。
子どもは、泣きながら何度も「ごめんなさい」「抱っこして」と言っていました。
それでもその時の私は、こぼれた牛乳とテーブルを片付けるまでは、イライラしすぎて、子どもを抱っこしてあげることはできませんでした。
どうにもこうにも自分の気が静まらず、それでも、「もうそろそろ抱っこしないとまた激しく泣き出して面倒になる」という考えから、半ば仕方なく、抱っこしました。
そこで、子どもが言ったのは「おかぁさん大好きだよ」です。何度も何度も言ったんです。
怖い顔して、吐き捨てるように「もうヤダ!」という言葉を何度も投げつけてしまった私にです。
「牛乳をふざけて食卓でこぼした」なんてことは、客観的に見れば、好ましくはないけど、本人や他の人の健康、命にかかわることではないという点からすれば、
声を荒げたり、子どもが泣くまでガミガミ言ったり、自分が心底疲れ果てるまで子どもを非難するような大ごとではないですよね?
でも、子どもとは全く関係ないところで、私が心配事やら、懸念事項やら、上手くいかずにイライラしていることを抱えていたがために、
子どもが少しでも「普段からしてはいけませんよ」と言っていることをしただけで、見事なまでにそうした心配事、懸念事項、イライラが、子どものせいであるかのように、
私の頭と心の中で急速に膨らんで、いっぱいになって、しまいには、子どもにぶつけてしまっていたんですね。
子どもにとってはとてつもなく理不尽な「しつけ」「注意」という名の下の「八つ当たり」を受けたことになる訳です。
それなのに、子どもは、私に「大好きだよ」と何度も言ったんです。
この頃は、こうした『大したことないことで母親である私が、八つ当たり的な怒りを子どもにぶつける』ことが少なくとも必ず週1回は発生してしまっていました。
「これじゃぁ、いけない」と自分の状態、行動、態度を変える必要性には気づいていながらも、どうすればいいのか、すぐに答えが出ませんでした。
イライラしないようにする方法なんて絶対にないし、その答えを探すことが完全に非現実的に思えたからです。
ある時、やっぱり私が仕事関係で時間に余裕がない時、イライラ、セカセカしながら食事の支度をしている時、
子どもが、側まで来て、腰に手をまわしてハグをしながら「おかぁさん大好きだよ」と言ったんです。
そこで私はようやく気付いたんです。
私が子どもを育てているようなつもりだったけど、
子どもは、私を親として育てるために、でも意識することなく純粋に、信頼・承認・気遣いの心を常に向けてくれていたんだって。
『無償の愛』を与えられるはずの母親である自分が、自分の都合でイライラし、子どもに怒りをぶつけてしまう、どうしようもない存在だという自己嫌悪でいっぱいでしたけど、
そもそもの考えにおごりがあったんです。
自分自身が両親からしてもらったと思っていたように、自分も我が子に『無償の愛』を与えられるはず、というおごりです。
『無償の愛』を与えることができるのは、「母親」である自分ではなく「我が子」だったんです。
『親としての失敗』を繰り返してしまうそんな私にでも、我が子が向け続けてくれる純粋な承認・信頼を『無償の愛』として感じることで、
親として成長し、我が子にふさわしい、はずかしくない親になっていけるように努力することが、自分の役割なんだって。
きっと、私の両親も、そうして努力したからこそ、子どもである私が『親から無償の愛を与えてもらった』と感じているはずなんだと。
初めから『無償の愛』を与えられる親はいないはずだと。
子どもから教わることで、成長することでできることなんだと。
このことに気付いてから、私はようやく、「自分都合のイライラ」を「子どもとの関わり」に持ち込まないために、私にとって必要な『母親として成長する』ことが何なのか、について真剣に考え始めました。
次の記事では、
私が見つけた『母親として成長すること』がどういことで、母親と子どもにとってどんな意味を持つことなのか、という自問自答の結果となる答え、についてお伝えしたいと思います。
★★『良い母親』への第一歩:気づき ~まとめ~★★
■『無償の愛』を与えることができるのは、まだ母親として未熟な『自分』ではなく、『我が子』と気づいた。
■どんなに親として失敗を繰り返してしまっても、「母親である」というだけで、我が子が自分に向け続けてくれる、純粋な承認・信頼を『無償の愛』として受け取れるようになると、気持ちが驚くほど軽く、暖かくなって、自分への嫌悪感が、自分へのエールに代わってくれた。
※2021年3月 記
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